SS:ミス・ディレクション
(2003/10/24作)


 私がその男に出会ったのはパリの街角だった。
 比較的人通りの多いその通りの一角に男は立っていた。

 「そこのお姉さん、奇術を見て行きませんか?」

 男は意外にも器用な日本語で話しかけてきた。この街では珍しいことである。

 「奇術?」
 「ええ。僕は奇術師なんです」

 そう言う男の服装は至ってシンプルなTシャツにジーンズで、とてもそんな芸をするような人間には見えない。私は少し興味を覚えた。

 「へえ。私手品好きなんです。お願いします」
 「奇術です」
 「え」
 「奇術です」
 「……」
 「奇術です」
 「…奇術を見せてください」
 「わかりました」

 男は終始笑顔だったが、かえってそれが不気味だった。しかしそんなことは口に出さないでおく。

 「コインを一枚貸してもらえますか?」
 「何でも良いんですか?」
 「はい」
 「では…ええと、はい」

 私が1ユーロ硬貨を財布から取りだして男に渡す。男はどこからか小さな紙を取りだし、1ユーロ硬貨を包んで折りたたんでしまった。中の1ユーロ硬貨はもう見えない。

 「ここに一枚のハンカチがあります。何も仕掛けがないことを確かめてもらえますか?」

 私は財布をポケットに仕舞ったその手で言われるままハンカチを受け取り、裏、表、どこかに隠しポケットがないかなど慎重に調べた。しかしそんなものは当然見つからない。
 男がハンカチを乗せろというので、紙で包んだ硬貨が乗っている男の左手の上にそのままハンカチをかぶせた。男の手に怪しいところは見受けられない。半袖なので袖口になにかを隠しておくこともできないだろう。腕時計やブレスレットの類もつけていないので、仕掛けを忍ばせておくことは不可能だ。

 「今からあなたのお金を消して見せます」

 男は言い切った。
 そして硬貨とハンカチが乗った左手の上に右手をかざし、念を込め始めた。ギャラリーだろう、背の高い男が私の肩越しから興味深そうにその様子を覗きこんでいた。
 なにやら得体の知れない呪文をひとしきり唱えた後、男はハンカチを取り、左手を私の方に突き出す。確かめろと言う意味だろう。私は紙に包まれた硬貨を手に取る。特に変わったところは見られなかった。ちょっと手間取りながら紙を開くと、そこにはさっきと変わらない状態で1ユーロ硬貨があった。

 「消えていませんけど」
 「あれ。おかしいな。ごめんなさい、もう一度チャンスを下さい」

 男はおどけた表情でそう言った。
 それを見た私は、恐らく一度失敗することも演出の一部なのだと直感した。

 「もう一度コインを元の状態に戻して、僕の手の上に置いてください」

 指示されるまま、私はもう一度硬貨を紙でくるみ、男の左手の上に置いた。男はその上にハンカチをかぶせ、再び念をこめ始める。そして、今度こそと言った表情でハンカチを取り去り、左手を突き出した。私はその上に今だ乗ったままの紙を手に取る。
 軽い。
 私は紙を開いてみた。硬貨は中になかった。紙を裏返したりしてみるが、こんな小さい紙に仕掛けがあろうはずもない。
 右手にハンカチを持ったまま、男は自慢げに微笑んだ。

 「どうですか。僕の奇術は」

 私はにっこりと微笑み返して言った。

 「なるほど。ミス・ディレクションですね」

 男の顔から初めて笑顔が消える。私は続けた。

 「手品に…いえ、奇術に無駄な動作は一切ありません。全てが意味を持っている。
  あなたは一度失敗しましたが、それもそのひとつ。あの時までは何も仕掛けはありませんでした。ですが、あそこで私に硬貨を一度確かめさせた行為に意味があったんです。
  私が硬貨を確かめようと紙を開く。わざわざ紙で硬貨をくるんだのは、簡単に確かめることが出来ないようにして私の注意を開封作業に向けさせるためだった。そうですね?」

 男は答えない。

 「あなたはその隙をついてハンカチに仕掛けをつけた。もしかしたらハンカチごと取り替えたのかもしれません。そうですね、例えば中央に両面テープを貼り付けるとかしたんじゃないかしら。
  ついでにハンカチの中にダミーの紙包みを忍ばせて、私がもう一度硬貨を紙に包んで手の上に乗せるのを待った。そして、何食わぬ顔でハンカチを手の上に乗せ、ダミーの紙包みを手の上に落とし、硬貨の入った紙包みを粘着テープにくっつけた。
  後は内側が見えないようにハンカチを取り去れば完成。すりかえられた紙包みには当然硬貨は入っていないというわけ。」

 男は答えない。

 「紙包みに注意を向けさせておいてハンカチに仕掛けを作る、まさに誤誘導(ミス・ディレクション)ね。奇術の世界では常套手段よ」
 「あなたは何者ですか?」

 男がやっと口を開いた。

 「ごめんなさい。別に黙っているつもりじゃなかったんだけど、私も奇術を生業としている者なの」
 「なるほど。お見逸れしました」

 男の顔に笑みが戻る。

 「おっしゃる通りです。さすがですね。参ったなあ。ははは」
 「コインは返してね」
 「あははは。参ったなぁ」

 困ったような困っていないような顔をして、男はハンカチの裏にくっついた紙包みから硬貨を取りだし私に渡した。私はそれを財布にしまう。財布に。あれ。
 財布がない。
 さっきポケットに入れたはずの財布がなくなっていた。思い違いかと思い、別の場所のポケットも探してみるが、やっぱりない。
 そういえば。私の脳裏に、途中覗きこんで来た背の高い男の姿が浮かぶ。あいつはもう近くに姿が見えない。奇術師は、目の前で笑っている。

 ああ。わかった。つまりこういうことだ。
 この男が私に声をかけ、奇術を見せる。コインを出させることで、財布のありかがわかる。私が奇術に気を取られている隙に、別の男が財布をする。奇術に注意を向けさせておいて、財布をする。ミス・ディレクション。奇術では常套手段だ。
 男は笑って、言った。

 「今からあなたのお金を消して見せます――そう言ったでしょ」
 「ていうか金返せよ」